5月5日はこどもの日です。
別の記事で、「こどもの日」の意味や成立するまでの様子をまとめてみました。
⇒ こどもの日の意味を簡単に言うと母の日のようでもあった!!
続けて、こどもの日が決まるまでの経緯をもう少し詳しく調べてみました。
また、気になる端午の節句についても調べてみると、いろいろな変遷がありましたので、そのあたりも整理してみました。
こどもの日が決まるまで
5月5日が「こどもの日」として決まるまでに、実はかなり紆余曲折がありました。
その経緯を見てみましょう。
こどもの日の候補日が複数あった
明治以前から、日本では子どもに関する祝いの日等として以下のような日がありました。
■3月3日 ⇒ 桃の節句
■5月5日 ⇒ 端午の節句
■11月15日 ⇒ 七五三の起源となる行事が古くから行われきた。
また、明治以降は
■4月1日 ⇒ 明治以降に4月1日が学年暦の最初となり、
児童福祉法が昭和23年の4月1日に施行
というように、こどもの日の候補がいくつもあったんですね。
男の子か女の子か?
男女同権論もあり、5月5日をこどもの日にすると、男の子に偏ってしまう。
逆に3月3日にしてしまうと女の子に偏ってしまう・・という意見もあったようです。
そこで、5月5日と3月3日を組み合わせた5月3日をこどもの日とする、という折衷案も出されたようです。
最終的には他の祝日との兼ね合いで決定!
結果としてどうなったかと言えば、他の祝日との兼ね合いで決まったんです。
国会に「子供の日を祝日とする請願」が寄せられた際、5月5日を希望するものが多かったそうです。
そして、憲法記念日を5月3日にすることが決まったので、最終的に「こどもの日」は5月5日に落ち着いたということです。
起源をさかのぼると奈良時代以前まで・・
端午とは
5月5日のこどもの日は端午の節句に関係しています。
旧暦では5月は午の月になります。
この午の月の最初の午(ご)の日を節句として祝っていました。
端午の「端」は「始り」を意味し、「端午」は月始めの午の日のことでした。
この「午」は「五」に通じることから、端午は毎月の5日となりました。
そして、午(五)の数字が重なる5月5日を「端午の節句」と呼ぶようになったようです。
邪気を払う風習
この5月5日は暖かくなり始める時期で、古くから湿気の影響を受ける時期として認識されていました。
そのような背景から、中国では5月を「悪月」としていました。
また、5月5日には人形を作って軒に掛けて、その毒気を払うという風習があったそうです。
あわせて菖蒲湯(しょうぶゆ)を飲み、粽(ちまき)を食べるとう風習もありました。
このような風習が日本に伝わり、奈良時代以前から、日本でも5月5日に薬草を取り、天皇や群臣が菖蒲のかずらをつけたようです。
さらに、この風習が平安時代には庶民の間にも広まってきました。
5月5日は菖蒲の節句となっていったわけです。
女性の節句だった端午
日本では、田植えの前に女性だけが家の中に閉じこもって、身を清める儀式を行う五月忌(さつきいみ)という風習がありました。
この風習がこれが端午と結び付き、端午は元々女性の節句だったという説もあります。
連想ゲームで男の子の節句に
さらに、鎌倉時代になると、菖蒲が武をたっとぶ「尚武」と同じ読みだったり、「勝負」に強くなる日となったり、また、菖蒲の葉が剣を連想させたことから、徐々に男の子の節句に変わっていきました。
そもそもは邪気を払うために菖蒲でかずらや鎧・兜が作られていたものが、薄い板や紙で兜を作るようになったんです。
そして、それがもっと発展して、武者人形を飾るようになりました。
このように、最初は菖蒲を使って邪気を払う風習が、様々な形で変わりながら、勝負や尚武を象徴する兜や武者人形が用いられるなってきたんです。
時間が立つといろいろな解釈で変わってくるものですね。
まとめ
こどもの日が決まるまでには、幾つかの候補日の中から選ばれてきました。
いろいろな解釈があり、すぐには決まらなかったわけです。
最終的には前後の祝日との関係で5月5日に決まっています。
また、こどもの日に関係する端午の節句も長い年月をかけて少しづつ変わっていきました。
もともとは、中国の風習が日本の習慣と交じり合い始まりました。
また、その意味が徐々に変わっていき、現在のような男の子の健康を願う風習となっていったわけですね。
一口にこどもの日と言っても、歴史的な背景を見てみると非常に面白いことがわかりますね。
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