7月の第3月曜日は海の日です。
平成7年に国民の祝日に定められた時は7月20日が海の日でした。
平成15年のハッピーマンデー制度が始まり、第3週が海の日に変更されています。
この時期は夏休みに入る時期ですし、海で泳ぎ始める時期でもありますよね。
だから、自分の場合、海で泳ぎ始める日として、日本の祝日になったのかしら・・・、と勝手に思い込んでしました。
しかし、他の祝日と同じように、この海の日もなぜこの日に決まったのかという理由や出来事があったんです。
実は「海の日」は明治丸という船に深く関係しているんです。
今回は海の日がどのように決められたのか、それに関係する明治丸について調べてみました。
1.海の日とは?明治丸について
1−1 明治丸はイギリス生まれ
幕末まで日本の船は木造船でした。それが安政の開国のころから、西洋式の大型の鋼鉄船が輸入されるようになってきました。
その輸入船の一つが明治丸だったんです。
(写真出典:深川観光協会サイト)
この明治丸は写真を見て分かるように補助の帆が付いています。
イギリスの造船会社に日本政府が作ってもらった当時の新型の汽船です。
船の排水量は約1,000t、全長約70mと非常に大きな船で、明治8年2月20日に横浜港に到着しました。
1−2 明治丸の任務は?
明治のはじめごろから洋式の灯台が国内で増え、その灯台の保守や巡視のための巡視船が使われるようになっていました。
明治船はその灯台巡視船の役割を果たしていました。
この聞きなれない灯台巡視船ですけど、灯台の保守を任務とする船のことです。
灯台設備の消耗品の補充や、点検修理、灯台守への生活物資の補給などを行っています。
今はこの灯台巡視船は海上保安庁に属していて、陸から行けない海上の航路標識等の点検を行っているそうです。
実は明治丸は灯台巡視船以外の役割もありました。
明治丸の気品ある外観からも伺い知れますが、この明治丸には特別室やサロンがある豪華な仕様の船で、当時国内ではもっとも最優秀の船だったんです。
そこで、明治天皇はじめ多くの高官がこの明治丸に乗船しました。
このように、明治丸は近代日本の重要な場面で活躍してたんですね。
2.子どもにもわかって欲しいこと
2−1 横浜港へ戻ってきた
ところで、最初に海の日と定められた7月20日に一体何があったのか説明しますね。
明治丸が横浜港に入港した次の年の明治9年6月初めから、当時23歳だった明治天皇が東北地方と北海道へ訪問された際、行きは陸路で帰りは海路で移動されました。
それまで船で移動する際は軍艦が使われていたらしいんですが、この時は明治丸が使われたそうなんです。
そして、無事に横浜港に到着したのが7月20日だったんですね。
2−2 なぜこの出来事が大事だったのか?
この出来事にちなみ、実業家であり当時の逓信大臣だった村田省蔵さんが、この海の記念日を提唱し、1941年(昭和16年)に7月20日が「海の記念日」となったわけです。
しかし、ちょっと疑問なのは、明治天皇が東北から北海道にかけておでかけされ、無事に船で戻って来られれただけ、とも言えるこの出来事が、なぜ記念すべき日になる必要があったのでしょうか?
それには、どうやら2つの理由があったようです。
1つ目は船旅の信頼度が高まったということ。
実は、当時は汽船による航行について、一般の人はかなり安全性を心配していたそうです。
しかし、明治天皇が無事に明治丸で横浜に戻ってこれられたことから、汽船による航行の安全性に信頼を寄せるようになったとか。
それ以降、船による海運と船旅への理解と利用が増えてきたということなんですね。
2つ目は海洋国日本の建設が進んだこと。
明治天皇の訪問先であった当時の東北と函館に住んでいた人々は明治元年(慶応4年)から明治2年にかけて起こった戊辰戦争の関係者。
この戊辰戦争は、明治政府を立ち上げた薩摩・長州を核とする新政府軍と旧幕府勢力・奥羽越列藩同盟との戦い。
東北や函館の人々は新政府軍と対決していたんですね。
このような戦争の後、明治天皇が行ったこのご巡幸により、国民一人ひとりが明治天皇のもとに一致し、海洋国家日本に建設に尽力していく転機になったと見られているそうです。
この2つの理由から、明治天皇が東北・北海道にお出かけになったことと、明治丸を利用したということが、日本の発展にとって大事だったということがわかりますよね。
まとめ
この海の日は、祝日法には「海の恩恵に感謝し、海洋国家日本の繁栄を祝う日」と定められています。
ハッピーマンデー制度が始まる前の7月20日に上記のような出来事があり、それが日本の国の発展に重要な出来事であったことを知っている人は少ないはず。
是非、今年の海の日には、明治丸や明治天皇に思いをはせ、海洋国家日本の繁栄を祝う日としてみましょう。
子どもたちにも是非お話してみてくださいね。